2009年年次総会ゲスト講演 北康利氏

2009_0606_160337.JPG

2009年年次総会の場では 作家の北康利氏にご講演いただきました。
日時:2009年6月6日(土) 16:00〜17:30
場所:慶応大学三田キャンパス西校舎528号教室
演題: 「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」

2009_0606_160317.JPG
以下は43期の湯川さんによる講演録です。

私は白州次郎という男に惚れこんで彼の本を書いたが、一方で福沢諭吉先生も素晴らしい人物だと思い、著書を発表させていただいている。この二人は一見まったく関係がないようで、実は深い関係があるということを、まずお話ししたい。

私の父はかつてスキルス胃ガンで亡くなった。昨年のGW明けに入院するも、闘病3ヶ月目の8月に亡くなってしまった。この歳で父親を亡くすというのは、世の中では珍しいことではないが、私にとっては大きなショックだった。そしてこの事件をきっかけに、私はこれまで以上に時間を大切にして生きていかなければならないと思ったのだ。 私の両親はともに兵庫県三田(さんだ)の出身。三田と書いて“みた”と読むのは東京に住んでいる人間の話で、関西ではこう書けば必ず“さんだ”と読む。両親が育ち、生涯故郷として大切にしたこの三田の地は過去の輝きを失っていたこもあり、私自身が地域振興に貢献することが父への供養になるだろうと思った。そこで、三田の興隆に大きな役割を果たした白洲家の三代に渡る活躍を本にしたため、神戸新聞の出版部に持ち込んだ。ところが、大して知名度のない白洲家の話では売れないと断られた。さらにフライデーの担当者に見せたところ、白洲三代ではなく、白洲次郎だけにしろとの助言を得ることとなった。

私の得技とでも言うべき能力は速読である。基本的に図書館で資料に目を通すことが多いのだが、かなりのスピードで文献の内容を精査し、必要に応じて印をつけてピックアップすることができる。そして書くことそのものも大好きでまったく抵抗なく書き続けることができることもあり、執筆を始めるといつも膨大な量の文章ができあがってしまう。白洲次郎の本にしても、はじめは上下2巻になるような量になってしまい、「新人作家にそんな生意気が許されると思うか!」との叱責を受け、泣く泣く大幅に原稿を削ることとなった。私は司馬遼太郎を尊敬しているが、彼の言葉で深く印象に残っているものに、「原稿は削った量で輝く」というのがある。その言葉を胸に、私は必死に原稿を削ったものだ。

 さて、白洲次郎にまつわる本の内容であるが、私はこれを書くにあたって、今まで「戦争は悲惨であった」という本は世の中にいくらでも存在しているが、「占領が大変だった」ということに着目して書かれた本はないのではないかということに気づき、そこに焦点を絞ることを考えた。白洲次郎は「従順ならざる唯一の日本人」と言われたが、それは「日本は戦争に負けたが、奴隷になったわけではない。日本人には日本人の誇りがあり、それを表現する権利まで奪われたわけではない。」との想いがあったからだ。アメリカの占領政策に反発した白洲次郎は、孤高の存在としてひとり立ち向かっていったのである。

私が書いたこの本は、NHKの「そのとき歴史が動いた」という番組における白洲次郎の特集で取り上げられることになった。この話がまとまって番組にも出演することになったとき、私は関係者に話して様子を探ってみたのだが、司会の松平さんがとても繊細で気難しいところもある人だという噂を聞いた。「あの人を普通のイントネーションでマツダイラさんと呼んではいけないよ。彼は頭の“マ”にアクセントのあるマツダイラという発音に誇りをもっているから、そこは気をつけないと。」と言われ、そのことばかり気にして本番も緊張していたのを覚えている。この番組は若い人から特に大きな反響があったのが嬉しい。インターネットの2チャンネルというのは、世の中を斜に構えて眺めている書き込みオタクが殆どだと思うが、この番組に関する実況書き込み欄が、“白洲次郎はかっこいい。あんな人になりたい!”といった類のコメントで埋め尽くされたというのは、素晴らしいニュースだった。また、翌日のアマゾン・ドットコムで私の書いた白州次郎の本がベストセラーの第3位に入っていたことも、大きな感慨とともに受け止めた。

2009_0606_162727.JPG
 さて、話は今日の本題である福沢諭吉先生に移させていただく。冒頭でも述べた通り、福沢先生と白州次郎の二人には、深い関係があるがために以上のような白州の話をした。白洲が最も重んじた概念で、実際に何度も口にしていた言葉に“principle(プリンシプル)”というものがある。学校の校則などは“discipline”とでも言うべきものだが、この二つは似て非なるものである。プリンシプルというのは生き方の基軸のようなもの。言い換えれば「美学」である。デシプリンが何かをしてはいけないということを謳ったものであるのに対し、プリンシプルはもっと能動的な、もっと積極的な意味合いを含む概念である。現代の日本を眺めてみると、このプリンシプルを意識している人間がいかに少ないことか。

 私はみのもんたという人間を好きにはなれない。彼はあれだけテレビに露出しておきながら、ただの一度もお茶の間の人々に向かって「あなたがたがしっかりしなければならないのだ!」と厳しい口調でいったことはないではないか。政治家や社会の制度を批判することは重要なことだけれど、本当に大切なのは我々国民自身がしっかりすること。こうすべきだ、と言って行動に移すことができない人がはびこっていること自体が最大の問題なのだ。このことについてはマスコミそのものにも大きな責任があるように思う。

 白洲次郎がその生涯を通じて我々に訴えていることは、自分自身の美学をきちんと持った人が集まれば、組織や社会は自ずとしっかりしたものになるということ。このことを明らかにした人物が明治、昭和にそれぞれ一人ずついて、それが福沢諭吉と白州次郎だと私は思っている。実は、福沢諭吉は白州次郎の祖父にあたる白州退蔵が三田藩の立て直しの際、独立自尊の精神を保ち、商業を強く意識した国造りをすべきだという教えを示している。退蔵はこの教えを守りぬき、藩に頼らずに自分自身がしっかりと根を張って生きなければならないことを念頭に、様々な施策を打った。当時、三田藩は海に向かいたかった。しかし幕府の方針により、山中に留まらされることになると、藩の人々は山中の城の前に池を作り、船を浮かべて海戦のイメージトレーニングをしていたという。なんとも頼りない様子ではあったろうが、 こうしたエピソードにも三田の独立精神が滲んでいると言えよう。福沢の自立のアドバイスを得て奮闘した白州は、やがて船を購入して貿易の準備をした。これからは商業が重要になる、との福沢の言葉、和の心を持ったまま欧米化を進めるべきだという、和魂洋才の発想に従って改革を進めたからこそ、豊かな土地になったのである。こうした経緯もあって、白州家には未だに福沢先生の手紙が残っており、独立自尊の精神が受け継がれている。そしてそれが、白洲の“principle”なる考え方に繋がっているのだ。

 今、世界は100年に一度の経済危機に直面していると言われる。日本は建国以来、3度の決定的な危機を迎えたことを思い返して欲しい。2000年の歴史のうちにおけるその3大危機とは、北条時宗の時代の元寇、明治維新前夜の内戦、そして第二次大戦における敗戦、である。そういう意味では白州次郎が直面したのは700年に一度の危機と言える。白洲は日本が戦争に敗けた後、自分達が国を支え、国を守らなければならないと信じ実行に移した人物であるが、彼の胸の内に流れていたのは福沢先生に端を発する慶応の人脈であったということになる。

 ところで、上野に行くと西郷隆盛の像がある。1945年8月当時は、上野公園から東京湾が見渡せるほど爆撃によって建物は破壊され、周囲は焦土と化していたという。あのとき、西郷像には尋ね人の張り紙だらけだった。つまり、メッセージボードのような役割をあの像が果たしていたのだ。なんとも皮肉な事実である。吉田茂や白州次郎が当時頭の中で強く意識していた事というのは明白で、それは「全てを失っても、日本人は残っている」というということであった。天然資源がない日本が復興するためには資源を輸入し、加工して輸出するビジネスモデルが肝要との見地に立ち、その為に現在の経済産業省にあたる通産省を作ったのである。それからのトヨタやホンダを中心とした自動車輸出産業の発展、ソニーや松下を筆頭とした家電輸出産業の興隆は、彼らの描いた青写真の上に実現したものだったことを想いたい。今、上野公園の西郷から東を見渡すと、建物や植物が乱立していて海の欠片も見ることができない。彼らの努力がそれだけの繁栄を日本にもたらしたことを想うと、不思議な感慨に襲われる。

しかし、現在の経済不況が経済焦土と呼べるものだとして、“大丈夫、まだ日本人がいるではないか”と言えることはできるだろうか。「日本人がいる」と彼らの信念を支えた日本人の姿というのはどういうものか、今一度考えてみるべきである。そしてその為には歴史に学ばなければならない。歴史上の人物の生き様を伝えなければならない。次代の人々が学べる灯台を建てていかなければならないと思うのだ。ところが、日本の図書館は伝記が少ない。敗戦が軍人の権威を失墜させ、教師の権威も無くなった。野坂昭如が言うとおり、敗戦を経験した人々は、GHQの陰謀も相まって権威というものを信じられなくなったのだ。今の日本の社会は、権威をこき下ろすことしか能の無い情けない世の中だが、他人の偉業を褒め、自分とは違う人生の素晴らしい部分を見出して見習う、そういった社会にすることが必要ではないか。

私は100億円を実際に手にしたことがある。1984年富士銀行に入行したとき、聖徳太子から福沢諭吉への1万円札の交換が行われたときだった。若手で体力があったので、現金を運ぶ仕事をさせられたのだが、その福沢先生とこのような縁ができるとはそのときは思いもよらかなった。今は貧乏なので、なかなか1万円札の方に縁はないが(笑)。

さて、三田藩の話に少し戻るが、商業を充実させ、独自の豊さを求めた藩士の中には財を成す者も多数現われた。そしてついに、三田藩士が神戸の高額所得者に名を連ねるようにまでなった。現在、ブランド和牛として名の知られた三田牛というのは、あの時代の方向性の果てに生まれたものであったし、それは福沢先生が主張した商業への志をかたちにした事業でもあった。福沢諭吉は下男下女を含めた全員が、当時大流行して世間を騒がせたスペイン風邪を引いた。風邪でもインフルエンザでも、なんでもそうであるが、移した者はケロリと治り、移されたものは深刻な症状に悩まされるものである。福沢先生は九鬼の殿様に会われたときに、スペイン風邪を移し、移された殿様は亡くなってしまった。また、白州退蔵も同じくスペイン風邪が移って亡くなってしまった。三田の人たちは、生きるも死ぬも福沢先生にお世話になったことになる。 福沢先生というのは、私の故郷である三田にかくも縁の深い人物なのである。

 第二次大戦後、アメリカの占領下にあって、GHQは日本を二度と戦争を起こす脅威の無い国にしてしまうことを第一命題にして様々な方策を練った。その根幹にあったのは、農業立国にしてしまい、のんびりした社会に仕立てることで無用な国力をそぐ、というポリシーであった。財閥解体と農地解放は、まさにそうした精神の表れである。アメリカは建国以来、常に強い立場を維持してきたが、その強さの秘密である自由と平等の力と、それを養う方法を教えることは頑なに拒んだのだ。パックスアメリカーナがこれほど継続している理由や要素として最も重要なのは、おそらくは時流に合わせて柔軟に変化していける力であろう。そしてその基本となるのは国家への忠誠心の教育。たとえばアメリカ人は小学生の頃から朝、授業が始まるときに国旗に向かって国家への忠誠を誓う言葉を並べ、国を讃える歌を歌う。そうしたことを日本人に教えるようなことはしなかった。結果として日本の弱体化が進み、二度と戦争が出来ない国になっただけでなく、ふ抜けた日本人が増えてしまったのだ。“それでもまだ、日本人がいる”と吉田茂や白洲次郎が言い、国の復興を信じた、その同じ日本人というのは今なおちゃんと存在しているだろうか。

戦争の悲惨さを浮き彫りにするだけでなく、50年後まで見据えて生きた吉田や白州と占領下の日本をテーマに筆を進めながら、私は現代の日本を見てもっと怒っている人がいる、ということに思いあたった。無論、福沢諭吉である。実は福沢先生がずっと考えていて、未だに実現できていないことがある。国民国家、というものの確立である。福沢は、国家とは国民ひとりひとりが作るものであることを主張し続けた人である。国とは一人一人が支えるものであるべきなのに、これが今の日本ではまったく出来ていない。そしてマスコミも人の陰口を言うことを助長し、理想を掲げる意欲をそぐような報道をする。日本がどうあるべきか、社会がどうあるべきかという大きなテーマを扱い、ひとつの考え方やビジョンを示すのがマスコミの大きな仕事の一つではあるまいか。無責任な批判を繰り返すことに終止するジャーナリストが多すぎる。その昔、石橋湛山という立派な人物がいたが、彼のような器の大きさと目的意識を持ったジャーナリストは、少なくとも現代の日本には見当たらない。

 福沢の日本論の中で特筆すべきなのは、農業と商業を重要視して国の発展をはかるべきだということである。そしてそのためには鉄道網を発達させることが重要であると説いた。鉄道を大事にすることは地方を大事にすること。地方の繁栄無くして国の繁栄は無い、というのが彼の主張の基軸にあった。諭吉は慶応義塾を設立したが、自ら育てた生徒を各地の師範学校の教師として派遣していた。鉄道でモノの取引を活発化させると同時に、各地に教育を施して自立させることで地方分権を達成させようとしていたわけだ。地方が大事であることを早いうちから察知し、格差を埋めるために自ら信じた行動を実践していたのである。強い国、豊な社会にとって、エリート層というのは非常に重要な存在である。俺たちが頑張らなければ、という意識が持てる優秀な人材こそが、大切な社会インフラそのものだ。福沢はそれを知り、それを実現するために具体的な行動に出たという点でも、非常に優れた先見の明と行動力を持った人であったと思う。

 先日、東大で講演会を行ったときに、学生に社会を背負う人間になれと言った。東大の卒業生の中には慶應義塾同様、金融の世界に進出するものが多いが、才能や環境に恵まれたエリートが金融などで自分の金儲けだけ考えていてどうするのか、ということも言った。大学というのは、あるいは教師という存在は、どんな人間を育てたいと思っているのか、明確に言えなければならないものだと思う。白州次郎はケンブリッジに留学したとき、教師から自分の答案を突き返されてこっぴどく怒られたことがある。その教師は、白洲が教えたことをそのまま答案に書いただけで、自分自身の意見など何も書かれていなかったことに対して怒ったのである。ケンブリッジでは指導教官とカフェでどれだけ食事をしたかも評点の一つになるなど、自主性と能動性が大きな評価基準なのだ。教師は学生に対して初めて授業をするとき、敢えて“Gentlemen”と呼びかけるところから始めるという。そうした行為の中に、ジェントルマンを育てるのだ、という気迫や意志表示が込められているし、それを生徒も敏感に感じ取るのだ。。福沢は“public school”という言葉を使ったが、この文脈における“public”というのは、「公立」という意味ではない。公のために尽くす人物を育てる、という意味なのである。

 江戸時代は「沈黙は金」と言われ、多くを語らないことが傑物の条件とされた。語らずとも理解し合えるのが日本の文化の特徴であったし、だからこそそうした態度が歴史的に美徳とされていたのだが、国際的な交流が本格的に始まりつつある世に照らして、福沢は直接的なコミュニケーションを取ることの重要性を説き、藩や階級を排して様々に議論できる土壌が必要になることを予測した。諭吉はspeechという英語を自ら「演説」と訳し、人前でしゃべる機会というものを定義づけて発展させたのだ。どんなに優秀な者だって、所詮ひとりの人間に過ぎないし、頭の中で考えられることには限界がある。訓練を積んだ幾人もの優秀な人材が主張をぶつけあい、議論を重ねることによってより良い結論を導き出せるはずだ、というのがspeechの原点であるが、福沢はそのことを深く理解し、日本にも導入すべきことを説いたのだ。

 日本最古の社交機関として福沢が設立した交詢社について、私は偏見があった。慶応のお坊ちゃまの考えることだと思っていた。しかし、本を書き始めてみて初めて福沢先生のすごさが分かった。人が集まり、交流を広げていくことを可能にしうる場を作ったことが、如何に素晴らしいか、ということが身に染みて分かったのだ。結果として明治生命や東京海上等、様々な一流企業がそこから生まれたのだし、先見の明を持っていたというだけでなく、目的を達成するための道筋を自ら示してみせたというのがとにかくすごい。例えば世の若者に向上心がないと説くのは誰でもできることであるが、福沢先生ならどうやったら向上心を持たすことが出来るかまで考え、実行に移すだろう。パラサイトしている若者についても、どう独立自尊させるかを考え、道筋を示してみせただろう。

2009_0606_171417.JPG
 ところで、最近の福沢本の8割は批判本である。物事の間違っているところやマイナス面を見つけることは確かに重要。反面教師にすることもできるからであるが、私はそれよりも人を尊敬し、人の良いところを見つけて見習う作業の方がよっぽど大切だと思っている。福沢諭吉という人物は、表面的には捉えられない奥深さを持った人間である。アジアを軽視していたとか、人種差別主義者だとか、欧米かぶれだとか、いろいろなことを言う人がいるが、少なくとも彼が貫徹した精神というものにブレはない。彼は噛めば噛むほど良いところが出てくる人間である。

 慶応の幼稚舎で講演を行ったこともある。そこではいくつもの驚くべき経験をさせていただいた。子供達が皆目をランランと輝かせてメモをとっていた。彼らに対しては、家庭環境にも才能にも恵まれている事を説き、日本を支えていって欲しいことを訴えたのだが、社会人でも知らないような言葉を発してみても知っていたりするなど、驚愕すべきレベルの高さであった。

経営者というのは役得ではなく役損を考えなければならないと思っている。一生懸命働いて、部長になり、取締役になり、社長になった人間は、手に入れたその肩書きや役職による自分自身の利益を考えるのではなく、その立場でまっとうすべき責務と経験できる苦労を想い、それを意気に感じて仕事に励むべきである。そうすることで会社の利益は確保され、人々に幸せを提供できるようになるのではないか。我々もまったく同じように、無私の精神を忘れず、日本をどうすべきかというビジョンと、国を支えるという情熱を持って生きていこうではないか。